10月19日午前の部 10:00~11:40

        「大阪のあゆみ」

                          元大阪歴史博物館研究主幹 講師 松尾信宏先生

 

 はじめに 大坂は秀吉が城を築いたことによって巨大な都市となり、

今までは西日本の最大の都市として東京に相対する。

大坂と大阪、江戸時代までは大坂と書くことが一般的ですが、明治以降、坂は土に返ると嫌われ阪を使うようになりました。

以下「大阪のあゆみ」講師の資料概要より主な項目を抜粋して報告と

致します。

◆中世まで難波には四天王寺門前町と渡辺津が都市的な場として存在、 

 四天王寺門前町は浄土教の信仰の隆盛に伴って自然発生的に門前町が

 広がり道路が明治時代まで残っていました。

◆渡辺津は古墳時代まで遡る。大阪歴史博敷地で見っかった法円坂倉庫群一体制

 難波宮廃都で政治的求心力が失うが、大川流路の変遷に伴い移動しながら存続、

 鎌倉時代には北浜と大川北の天神橋筋周辺にひろがっている。

◆本願寺の城、天文元年(1532)山科にあった本願寺が天文法華の乱で焼け、翌年大坂に移す。

◆以降、信長・秀吉・家康の三人による権力闘争の課程、および安土桃山・江戸各時代の

 大坂城築城と再建、家康亡き後、徳川幕府の施策により元和5年(1619)に復興する。

 松平忠明の市街地整備~過程を文献より、大規模発堀調査資料など踏まえて、詳しく学びました。

 偉大な先人たちに敬意を表し、多大な偉業に感謝します。

 先生から、わかりやすく有意義なご講義を頂きました。ありがとうございました。

 

 [添付資料]中世の大坂と豊臣後期の図面     「江戸時代明暦期の“大坂”街に住もう」平凡社1989年より転載

 

 大坂の人口 寛永11年(1634)約40万5千人?   慶安4年(1651)約18万8千人?

 人口減は国家プロジェクトであった大坂城再建工事を終了したからとも?